キリバスの冠婚葬祭 その1 ― 2012年09月01日
人生の節目でお祝いをする。それは、日本もキリバスも同じです。
しかし、所変われば品変わる。
お祝いの内容も、いつお祝いするのかも、日本とこの国では全く違います。
キリバスでは、以下の時期に盛大なお祝いをします。
・1歳の誕生日
・女の子が初潮を迎えたとき
・成人式(キリバスでは21歳)
「1歳の誕生日」というのは、「?」と思われる方も多いのでは。
どういう意味で祝うのかと言いますと、「1歳まで、よくぞ生き延びた! とりあえず、もう大丈夫だ!!」ということで、盛大に祝います。
この国は、衛生上の問題(特に水)や、医療水準の問題から、乳幼児死亡率が3.9%(2010年度)と、大洋州ではパプアニューギニアに次いで高いのです。
(ちなみに、日本は0.2%です。)
先日、活動が終わって帰宅したら、自称、大家の息子さんがウチにやってきて、
「ナウから、オヤジの孫の1イヤー誕生日パーティーをやるから、ユーもトゥギャザーしよーぜ」(ルー大柴風)
と誘ってもらいました。
ルーおっちゃんは、「オンリーファミリーだよ」と言ってたのですが、会場に行ってみたら、ざっと200人位はいたでしょうか。全員親族だそうです。
しかし、所変われば品変わる。
お祝いの内容も、いつお祝いするのかも、日本とこの国では全く違います。
キリバスでは、以下の時期に盛大なお祝いをします。
・1歳の誕生日
・女の子が初潮を迎えたとき
・成人式(キリバスでは21歳)
「1歳の誕生日」というのは、「?」と思われる方も多いのでは。
どういう意味で祝うのかと言いますと、「1歳まで、よくぞ生き延びた! とりあえず、もう大丈夫だ!!」ということで、盛大に祝います。
この国は、衛生上の問題(特に水)や、医療水準の問題から、乳幼児死亡率が3.9%(2010年度)と、大洋州ではパプアニューギニアに次いで高いのです。
(ちなみに、日本は0.2%です。)
先日、活動が終わって帰宅したら、自称、大家の息子さんがウチにやってきて、
「ナウから、オヤジの孫の1イヤー誕生日パーティーをやるから、ユーもトゥギャザーしよーぜ」(ルー大柴風)
と誘ってもらいました。
ルーおっちゃんは、「オンリーファミリーだよ」と言ってたのですが、会場に行ってみたら、ざっと200人位はいたでしょうか。全員親族だそうです。

19時からの開始予定でしたが、まあ、この国では時間通りには始まりません。たいてい、1時間前後遅れて始まります。これがキリバスタイム。しかしこの日は、3時間遅れの22時からスタート。さすがに待ちくたびれた… 明日も活動があるのに…
まずは、紳士的なおじさんの挨拶から。
このおじさん、英語も上手で、キリバス語の挨拶の後、英語で、「今日は、日本から来てくれた○○(私の名前)が参加してくれました。どうぞ今夜は、私たちの文化を楽しんでいってください。」とスピーチしてくださりました。
挨拶が終わると、女性陣のダンスからスタート。マイエという、伝統的な踊りです。
しかし、踊っている最中に、突然、音楽がプチッ。
「ごめん。アンプのバッテリーが落ちちゃった。ちょっと待ってて。」と音響のオッチャン。

まあ、ここまでならよくあること。
「OK、直った。あれ、どこからだっけ? ゴメン、もう一回最初から踊って。」
これには、さすがのキリバス女性からもブーイング。いくら何でも、踊り子さんがかわいそう。
続いて、チビッコたちによるダンス。子供ながら、見事な腰使いです。これには、大人たちも大歓声。
「OK、直った。あれ、どこからだっけ? ゴメン、もう一回最初から踊って。」
これには、さすがのキリバス女性からもブーイング。いくら何でも、踊り子さんがかわいそう。
続いて、チビッコたちによるダンス。子供ながら、見事な腰使いです。これには、大人たちも大歓声。

しかし、踊っている途中で音楽がブチッ。またかよ…
踊りの後は、ようやく食事。
お母さんたちが持ち寄ってくれた料理がズラリ。洗面器に入っているのがキリバス流。ここに来たばかりの頃は少しびっくりしましたが、今ではすっかり慣れました。
踊りの後は、ようやく食事。
お母さんたちが持ち寄ってくれた料理がズラリ。洗面器に入っているのがキリバス流。ここに来たばかりの頃は少しびっくりしましたが、今ではすっかり慣れました。

キリバスでは、食事を取りに行ける人の順番は明確に決まっています。
年配の男性 (と、外国人である私) → 若い男性 → 女性と子供
の順番です。特に、女性と子供は、男性の食事が終わるまで、食事を取ることができません。それが、この国の慣習なんですね。
食事の後は、歌やおしゃべり。まだまだ夜は続くのでした。
年配の男性 (と、外国人である私) → 若い男性 → 女性と子供
の順番です。特に、女性と子供は、男性の食事が終わるまで、食事を取ることができません。それが、この国の慣習なんですね。
食事の後は、歌やおしゃべり。まだまだ夜は続くのでした。
戦争の爪痕 1 ― 2012年09月16日
第二次世界大戦の最激戦地の一つ、それがキリバス共和国です。
大洋州での激戦地と言えば、ソロモンのガタルカナルカ島が有名ですが、キリバスの首都があるタラワ島や、その北に位置するブタリタリ島でも激戦が繰り広げられました。タラワ島では、日本兵4600名、米兵1000名。ブタリタリ島では、日本兵600名ほどの死者が出るほどでした。
島内には、現在でも戦跡が残っています。
大洋州での激戦地と言えば、ソロモンのガタルカナルカ島が有名ですが、キリバスの首都があるタラワ島や、その北に位置するブタリタリ島でも激戦が繰り広げられました。タラワ島では、日本兵4600名、米兵1000名。ブタリタリ島では、日本兵600名ほどの死者が出るほどでした。
島内には、現在でも戦跡が残っています。


これは、タラワ島の砲台。今では、子供たちの遊び場になっています。
近くには、日本兵が眠っている墓地や、慰霊碑もあります。
イギリス人墓地と慰霊碑もあります。
近くには、日本兵が眠っている墓地や、慰霊碑もあります。
イギリス人墓地と慰霊碑もあります。

「1942年10月15日に、このベシオの地で日本兵に殺害された22人のイギリス人犠牲者を忍んで。武器を身につけず、勇敢に、そして不屈の精神で彼らに立ち向かい、死に至った。」
近くに住んでいる、高倉健似の品のいいおじいさん(ちょっと言い過ぎか?)曰く、この慰霊碑は、イギリス政府かどこかが建てたそうです。
キリバス最西端の島、バナバ島では、日本軍による島民の虐殺事件という悲惨な歴史もあります。
こんな悲しい過去があるのに、キリバスの人たちはとても親日的で、私たち日本人に対してとても親切に接してくれます。高倉健おじいさんは、こんなことを言っていました。
「戦争によって、たくさんの命が失われたという悲しい過去があるけれど、今、日本はキリバスに対して、たくさんのギフトを与えてくれている。そして、君がこうしてボランティアとして、この国をよくするために来てくれている。私たちは、とてもとても感謝しているよ。」
身が締まる思いがしました。
韓国や中国が過去の歴史ばかりをほじくり返す中、このように日本を評価してくれる国もあるんです。そのことを、日本の多くの人に知って欲しい。そう願っています。
近くに住んでいる、高倉健似の品のいいおじいさん(ちょっと言い過ぎか?)曰く、この慰霊碑は、イギリス政府かどこかが建てたそうです。
キリバス最西端の島、バナバ島では、日本軍による島民の虐殺事件という悲惨な歴史もあります。
こんな悲しい過去があるのに、キリバスの人たちはとても親日的で、私たち日本人に対してとても親切に接してくれます。高倉健おじいさんは、こんなことを言っていました。
「戦争によって、たくさんの命が失われたという悲しい過去があるけれど、今、日本はキリバスに対して、たくさんのギフトを与えてくれている。そして、君がこうしてボランティアとして、この国をよくするために来てくれている。私たちは、とてもとても感謝しているよ。」
身が締まる思いがしました。
韓国や中国が過去の歴史ばかりをほじくり返す中、このように日本を評価してくれる国もあるんです。そのことを、日本の多くの人に知って欲しい。そう願っています。
戦争の爪痕 2 ― 2012年09月30日
キリバスには、そこかしこに集会所があります。そんなにたくさんあって何を
しているのかというと、パーティーから宗教行事、マダムの娯楽ビンゴ大会ま
で、様々に用途に利用されています。 えっ? 壁はあるのかって? 写真を見てみてください。

やっぱりないんです。 さながら、巨大な東屋ですね。 この集会所のことを、キリバスでは「マニアバ」といいます。 実は、日本からの援助で建てられた、「ニッポンマニアバ」なるものもあります。 だいぶ前ですが、このマニアバの40周年記念式典に招待され、参加してきました。

行ってみると、"超"がつくほどの長老達がズラリ。 このマニアバがある地は、戦時中、日本が植民地化していた場所。だから主催
者は、当時日本と関わりがあった人たち。つまり、70歳を優に超える人たちな
ワケです。平均寿命50歳前後のこの国で、70歳といったら、とてつもない快挙
です。 式典は、キリバスでのお決まり通り、以下のように進んでいきました。 エラい人のスピーチ → ダンス → 食事 → 食事中のダンス → 歌



歌の最中、おばあさんが前に出てくると、一言。「これから日本の歌を歌います。」 なんと歌ったのは、君が代。しかも、しっかりとした日本語とメロディーで。
これには、さすがに私もびっくりしてしまいました。びっくりしすぎて、写真
を撮るのを忘れてしまったほどです。
きっと当時、学校かどこかで歌わされたのでしょうね。 この歌を歌っているとき、おばあさん、一体どんな気持ちだったのでしょう。 戦後67年を経てもなお、人々の心の中には戦争の傷跡がしっかりと残っている。
それを、まざまざと見せつけられた気がしました。
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